2010年04月17日
アメリカの住宅を見てきた・・・29
ギャンブル邸を見て気づかされたことの次の項目は、やっぱり真贋の談義である。それはそのまま、ラスベガスから始まっているアメリカ的な発想とも共通している。いよいよここで結論が出るのだろうか。
まず、一言で言えば「本物ではない」。
直前に建てられて展示されていた万博の建物は、日本から材を持ち込み、日本の職人が手を下して建てている。まさに本物の日本の建物である。それをおそらく見て、その他にも日本的な写真を、それこそたくさん見て設計をし、ある意味ではできる限り忠実に作ろうとした。少なくともその努力は見える。しかし、本物ではない。
バルコニーから見た地回りの梁は、柱よりも梁が勝っていて、梁継ぎがしてある。日本の伝統である小屋組の、丸太使いの雰囲気がある。しかし、よく見ると掛かっているべき梁の上下関係が逆である。本当にこの継ぎ方をしたら、力が伝えにくくなってしまうし、組立もやっかいになる。これは構造材として作られているのではなく、張りぼてなのだ。
虹梁を思わせる使い方が、インテリアの意匠に取り入れられている。長押の上にかけられているから、使われている場所が違う。でもそれは全体に洋館なのだから良いとしよう。しかし、その虹梁は大きな板から削りだして作られていることが木目を見れば分かる。原木の形を利用したものではなく、イミテーションなのだ。
2階の居室のにも大きな梁がかけられている。一見して、牛梁として生かしそうな配置である。が、しかし、その部屋を出ると梁は見あたらない。通していないのだ。つまり、見かけの大きさだけの梁である。
おそらく必死で日本建築の写真を眺めながら、これはと思ったデザインを盛り込むだけ盛り込んだに違いない。しかし、本当に残念ながら本当の意味を知って作られたものではなく、あくまでもデザインの要素として入れられたもの以外のものではない。だから、本物ではないのである。
まさに、ラスベガスのホテルの縮図である。
パリがテーマのホテルがあり、イタリアがテーマのホテルがあり、エジプトがテーマのホテルがある。日本がテーマの住宅があっても良い。そのノリだ。
その意味では、アメリカの感覚は変わっていない。でも、変わっていることがある。
それを一言で言えば「本物である」ことだ。
まず、一言で言えば「本物ではない」。
直前に建てられて展示されていた万博の建物は、日本から材を持ち込み、日本の職人が手を下して建てている。まさに本物の日本の建物である。それをおそらく見て、その他にも日本的な写真を、それこそたくさん見て設計をし、ある意味ではできる限り忠実に作ろうとした。少なくともその努力は見える。しかし、本物ではない。
バルコニーから見た地回りの梁は、柱よりも梁が勝っていて、梁継ぎがしてある。日本の伝統である小屋組の、丸太使いの雰囲気がある。しかし、よく見ると掛かっているべき梁の上下関係が逆である。本当にこの継ぎ方をしたら、力が伝えにくくなってしまうし、組立もやっかいになる。これは構造材として作られているのではなく、張りぼてなのだ。虹梁を思わせる使い方が、インテリアの意匠に取り入れられている。長押の上にかけられているから、使われている場所が違う。でもそれは全体に洋館なのだから良いとしよう。しかし、その虹梁は大きな板から削りだして作られていることが木目を見れば分かる。原木の形を利用したものではなく、イミテーションなのだ。
2階の居室のにも大きな梁がかけられている。一見して、牛梁として生かしそうな配置である。が、しかし、その部屋を出ると梁は見あたらない。通していないのだ。つまり、見かけの大きさだけの梁である。
おそらく必死で日本建築の写真を眺めながら、これはと思ったデザインを盛り込むだけ盛り込んだに違いない。しかし、本当に残念ながら本当の意味を知って作られたものではなく、あくまでもデザインの要素として入れられたもの以外のものではない。だから、本物ではないのである。
まさに、ラスベガスのホテルの縮図である。
パリがテーマのホテルがあり、イタリアがテーマのホテルがあり、エジプトがテーマのホテルがある。日本がテーマの住宅があっても良い。そのノリだ。
その意味では、アメリカの感覚は変わっていない。でも、変わっていることがある。
それを一言で言えば「本物である」ことだ。
というのは、使われている材のこと。オークにチーク、そして白木の材までが、本物の高級な銘木が使われている。これを考えただけでも、大変なコストが掛かっているであろうことは察しがつく。先の話での虹梁などは典型的である。おそらく、張りぼてでペタペタ貼ったように作られていたら、ギャンブル氏もグリーン兄弟も納得しなかったであろう。それだけではなく、現在、このようなアメリカの財産となるような評価を受けてもいまい。大きな本物の木材から削り出すということに対しては、ある意味では大変な敬意が払われ、いかにも本物のように扱われている。
その本物を使っているというデザインを象徴しているのは、面取りの丸面かもしれない。全体の印象としては、この丸面のおかげで古びれても見える。厚みのある無垢材できていることを実感させるのだ。
この本物であって、本物でないというところに、これまでにも悩んだ住宅に対する価値表現の結論があるように思えてしょうがない。単純に本物は価値があるとしよう。そして偽物は価値がない。表面が本物の材で作られた偽物は、価値があるのか?
YES 今の結論では、価値がある。
本物の木の単板貼りでは価値があるのか?
NO 何となく認めたくない。
ラスベガスは、偽物である。しかも偽物を使った偽物である。イタリアの街なみを再現しているが、天井の高さが足りないので、2階の窓や高さは低くしてある。でも、その感覚が遠近感を出して、天井に描いてある空までもが遠くに見える。まさに臨場感は類稀なるもので、誰もが驚く。ラスベガスの存在を偽物という人はいないであろう。
ディズニーランドは、偽物で作った偽物である。でも、どの遊園地より本物の遊園地として誰もが認める。
実は偽物で作った、偽物も本物になりうるのである。
あえて日本人の感覚ではどうであろうか。偽物と分かってはいてもラスベガスとディズニーは認めるであろう。
さらにアミューズメントと住宅では、目的も作り方も違う。比較できないことである。前者は楽しむもので、後者は楽しむものではない。
本当であろうか。
住宅も楽しむものと言う判断はできないのか。
すればどうなるのか。
楽しむものと考えたときには、これまでに見てきた、ホームショーの部品の数々と、ギャンブル邸の住宅は、延長線上にあることが分かってきた。そして、それが住宅のデザインなのである。
