2010年04月22日
アメリカの住宅を見てきた・・・31
ロスアンジェルスの2日目は、バスで移動してプラヤビスタの新しい街を視察した。
ところが見学の際に真っさきに向かったのはトイレになってしまった。
単に小用がしたくなったのだが。何も分からないので、コーヒーショップに入ってトイレを借りた。
そこで用をたしてから見つけたのが、一つの貼り紙である。
「手を洗いなさい」と描いてある。しかもよく読むと、「state low」と書いてある。ほう、州法でトイレの手洗いが定められているのだと思った。衛生感というのは健康の為にも大切なことである。日本には、上足の文化があって衛生が保たれているから健康住宅であるという評価もある。
そう思い続けていた。
話は一転して、つい最近、新幹線の中で面白い寸景を見つけた。
この寸景は、日本人の上足文化への変化であると感じた。上足の文化、これは本当に根元的な文化であり根強いものだと思う。しかし、残念ながら廃れつつあるとも思う。かつ、そう言いながら迷いもある。まさに、その象徴ともなる寸景である。
上足の文化というのがどれだけ根強いかというと、単純に言えば、おそらく明治維新以来に靴の文化がもたらされたにもかかわらず、変わらなかった。戦前はもちろんのこと、昭和も中頃以降まで下駄を履いていた人は多かったと思う。つまり、100年という歳月を持ってしても変わらないほどの、根強い文化であったのだ。
それに対して、言葉というのはどうだろう。文化としては言語は大切な要素である。しかし、同じ期間の中でおそらく大変な変化をしていると言っても過言ではないだろう。その言語以上に変わらなかったのが、上足の文化である。
また、価値観としての上足文化というのを知らされた文を昔読んだ覚えがある。
ところが見学の際に真っさきに向かったのはトイレになってしまった。
単に小用がしたくなったのだが。何も分からないので、コーヒーショップに入ってトイレを借りた。
そこで用をたしてから見つけたのが、一つの貼り紙である。
「手を洗いなさい」と描いてある。しかもよく読むと、「state low」と書いてある。ほう、州法でトイレの手洗いが定められているのだと思った。衛生感というのは健康の為にも大切なことである。日本には、上足の文化があって衛生が保たれているから健康住宅であるという評価もある。そう思い続けていた。
話は一転して、つい最近、新幹線の中で面白い寸景を見つけた。
この寸景は、日本人の上足文化への変化であると感じた。上足の文化、これは本当に根元的な文化であり根強いものだと思う。しかし、残念ながら廃れつつあるとも思う。かつ、そう言いながら迷いもある。まさに、その象徴ともなる寸景である。
上足の文化というのがどれだけ根強いかというと、単純に言えば、おそらく明治維新以来に靴の文化がもたらされたにもかかわらず、変わらなかった。戦前はもちろんのこと、昭和も中頃以降まで下駄を履いていた人は多かったと思う。つまり、100年という歳月を持ってしても変わらないほどの、根強い文化であったのだ。
それに対して、言葉というのはどうだろう。文化としては言語は大切な要素である。しかし、同じ期間の中でおそらく大変な変化をしていると言っても過言ではないだろう。その言語以上に変わらなかったのが、上足の文化である。
また、価値観としての上足文化というのを知らされた文を昔読んだ覚えがある。
日本が太平洋戦争に敗れ、自宅を進駐軍の基地として没収された家族の手記である。沖縄を始め散々な戦争の記憶も刻む人もあるし、空襲のすさまじさを語る人も多いが、進駐軍に家を取られた経験の記述は珍しい。自宅を拠点として没収されるのであるから、それなりの庄屋でもあろうが、実は戦争の被害を実質的に受けていなかったと考えることもできる。それでも、敗戦国であるから没収という負い目に出会う。
しかし、その家族の手記は没収という行為に敗戦を感じたわけではないと語っていた。
一番に敗戦を感じたのは、その没収された家にアメリカ人が乗り込んできて、土足で畳の上を歩き回った時だと言うのである。その文章を読んで、とても共感が湧いた。財産の没収というのは、戦争という行為に破れたときには覚悟をしなければならないことのひとつでもあるのだ。どのように考えても、おそらく論理的にたどり着く結果である。その意味では諦めがつく。しかし、畳の上を土足で歩かれるというのは、まさに文化的な屈辱そのものである。それは直接的に感情に訴えかけるものであったろう。
それだけ、下足でなじる行為は、日本人の嫌がる、心に傷をつける感覚なのである。
さて、新幹線の中で見かけた寸景は、新幹線の座席に座りながら、靴を脱ぎ、靴下になってそのまま床に足を置いている姿である。しかもそれを行っているのは荒ぶれた若者ではなく、立派に見受けられるサラリーマンである。この寸景は、最初からテーマにしている上足のことをすっかり惑わしてくれた。
そのサラリーマンが靴を脱いでいる姿は、100年どころか150年経っても、日本人には靴というのは馴染まない装飾品であることを示している事実である。まさにその点は、上足の文化が個人の慣習の中に根強く残されていることを物語っている。
その反面、脱いだその足をそのまま地べたに置いている。下足と上足の定義の問題にもなりかねないが、地べたに置いたら上足ではないではないか。
靴を履いたまま寝室まで上がり、さらにはベッドにも靴を履いたまま寝ころぶ。その行為と、裸足のまま地べたを歩き回り、座り、寝ころぶ。結果的には全く同じ行為である。
そう言えば、電車の中でも街中でも地べたに座り込む人の数をよく見かける。しかも、そのすぐ後ろに平気で便所があったりする。これはどう考えても上足の文化の終焉であるとしか思えない。
この中で上足の文化の優位性を語るつもりは今はない。自分自身の中ではそう思っているかもしれないが、ここでは語らない。
何よりも、何に変えても面白いのは、この一日本人の行動である。とにもかくにも、裸足が好きで、靴の文化には馴染まないのである。だから、新幹線の中の座席をくつろぎの場として変えるために靴を脱ぐ。おそらくこの感覚に共感を覚える日本人は多いことだと思う。
その象徴が同じ新幹線のグリーン車に乗れば分かる。フットレストがついているのだ。しかも、裏返せば靴を脱げるように作られている。このような公共電車のアイテムを持っている国はおそらくないであろう。それほど、靴を脱ぎたい上足文化の国なのである。
それでいて、その靴を脱いだ足はそのまま地べたに置く。おそらく、その足の持ち主は自宅に帰ってそのまま玄関でいつものように靴を脱ぎ、リビングに寝室にあがるに違いない。一つの行為が、上足の文化の是非の行為を示している。上足の文化が抜けきれない日本人の姿と、上足の文化の存在を否定しかねない日本人の姿の両面があるのである。
この寸景を最大限に肯定すると、上足の文化というものが本当に存在するのだろうかという疑問に突き当たった。考えても見れば、昔の子供は裸足で走り回っていた。草履や下駄というのも靴と言うよりは、裸足に近い。その汚れた足でそのまま座敷に上がったのでは、上足もくそもない。足を拭くという風習ももちろんあったようであるが、一般的な行為としてあったのであろうか?。
上足は清潔感や衛生感覚とは別のものなのかも知れない。
これは、ただでは置けない上足文化の事実である。
さて、くだんのトイレの貼り紙であるが、洗わない人が多いからこそ、貼り紙があるとも考えられる。ましてや法律まで引き出して手を洗わせることをしていない日本は、もしかしたらやっぱり清潔感を大切にする国なのかも知れない。

しかし、その家族の手記は没収という行為に敗戦を感じたわけではないと語っていた。
一番に敗戦を感じたのは、その没収された家にアメリカ人が乗り込んできて、土足で畳の上を歩き回った時だと言うのである。その文章を読んで、とても共感が湧いた。財産の没収というのは、戦争という行為に破れたときには覚悟をしなければならないことのひとつでもあるのだ。どのように考えても、おそらく論理的にたどり着く結果である。その意味では諦めがつく。しかし、畳の上を土足で歩かれるというのは、まさに文化的な屈辱そのものである。それは直接的に感情に訴えかけるものであったろう。
それだけ、下足でなじる行為は、日本人の嫌がる、心に傷をつける感覚なのである。
さて、新幹線の中で見かけた寸景は、新幹線の座席に座りながら、靴を脱ぎ、靴下になってそのまま床に足を置いている姿である。しかもそれを行っているのは荒ぶれた若者ではなく、立派に見受けられるサラリーマンである。この寸景は、最初からテーマにしている上足のことをすっかり惑わしてくれた。
そのサラリーマンが靴を脱いでいる姿は、100年どころか150年経っても、日本人には靴というのは馴染まない装飾品であることを示している事実である。まさにその点は、上足の文化が個人の慣習の中に根強く残されていることを物語っている。
その反面、脱いだその足をそのまま地べたに置いている。下足と上足の定義の問題にもなりかねないが、地べたに置いたら上足ではないではないか。
靴を履いたまま寝室まで上がり、さらにはベッドにも靴を履いたまま寝ころぶ。その行為と、裸足のまま地べたを歩き回り、座り、寝ころぶ。結果的には全く同じ行為である。
そう言えば、電車の中でも街中でも地べたに座り込む人の数をよく見かける。しかも、そのすぐ後ろに平気で便所があったりする。これはどう考えても上足の文化の終焉であるとしか思えない。
この中で上足の文化の優位性を語るつもりは今はない。自分自身の中ではそう思っているかもしれないが、ここでは語らない。
何よりも、何に変えても面白いのは、この一日本人の行動である。とにもかくにも、裸足が好きで、靴の文化には馴染まないのである。だから、新幹線の中の座席をくつろぎの場として変えるために靴を脱ぐ。おそらくこの感覚に共感を覚える日本人は多いことだと思う。
その象徴が同じ新幹線のグリーン車に乗れば分かる。フットレストがついているのだ。しかも、裏返せば靴を脱げるように作られている。このような公共電車のアイテムを持っている国はおそらくないであろう。それほど、靴を脱ぎたい上足文化の国なのである。
それでいて、その靴を脱いだ足はそのまま地べたに置く。おそらく、その足の持ち主は自宅に帰ってそのまま玄関でいつものように靴を脱ぎ、リビングに寝室にあがるに違いない。一つの行為が、上足の文化の是非の行為を示している。上足の文化が抜けきれない日本人の姿と、上足の文化の存在を否定しかねない日本人の姿の両面があるのである。
この寸景を最大限に肯定すると、上足の文化というものが本当に存在するのだろうかという疑問に突き当たった。考えても見れば、昔の子供は裸足で走り回っていた。草履や下駄というのも靴と言うよりは、裸足に近い。その汚れた足でそのまま座敷に上がったのでは、上足もくそもない。足を拭くという風習ももちろんあったようであるが、一般的な行為としてあったのであろうか?。
上足は清潔感や衛生感覚とは別のものなのかも知れない。
これは、ただでは置けない上足文化の事実である。
さて、くだんのトイレの貼り紙であるが、洗わない人が多いからこそ、貼り紙があるとも考えられる。ましてや法律まで引き出して手を洗わせることをしていない日本は、もしかしたらやっぱり清潔感を大切にする国なのかも知れない。

